kazusahealth’s blog

「不安型愛着スタイル」克服のための「書く」練習中。

はじめに~ブログの趣旨~

プロフィールにも書きましたが、

2023年1月2日現在、働き始めて2年目、26歳の女性です。

 

このブログは「不安型愛着スタイル」の傾向があることに気づいた私が、「書く」ことで心の整理をつけ克服していこう、という目的の基に書かれています。

誰かに向けて発信することで、形に残り、自分の強すぎる承認欲求を発散させるためにも行っています(これは性質ではあるものの、「不安型愛着スタイル」と大きな関連があるそうです)。

今回は、自分が「不安型愛着スタイル」と気づくきっかけと、私の「生きづらさ」がどのようなものなのかについて書きます。

 

気づくきっかけ・兆候

20代の途中から体調を崩しやすくなった

成人式の時はストレスと疲れが最大値に。明るくふるまっていたが虚無感は凄かった。


大学入学後、以前は悩み事が一つもなかったのが、毎日人間関係や自分のあり方について悩むようになってしまいました。

その頃から、体調を崩しやすくなりました。

始めは年に1回から2回、風邪やインフルエンザにかかるようになったり、精神的につらくなって過食気味になったりするなどといったことでした。

中高続けていた水泳をやめたせいで、体の免疫が落ちたんだろうな・・・と思っていましたが、今思えば、慣れていないことに対してストレスがあり、順応もしなかったので、自分が大丈夫だと思っていても徐々に体の調子が悪くなっていたんだなと思います。

大学卒業後は大学院に入りましたが、知らないことだらけだが頑張る→教授から指摘→調べてもわからない→指摘→調べても追いつかない→うまくいかないの連続で、半年以上不眠に悩まされました。このときから、「寝る」と言うことに関する私の悩みは断続的に続くようになってきます

大学院を修了したあとは働き始めますが、職場の仕事について強いストレスを感じ始め、また不眠に。さらに、立ち上がれないほどのめまいに襲われ、一時は嘔吐とめまいを繰り返しました。自分はこのままどうにかなってしまうのではないか、二度と職場にいけないのではないかと苦しみました。このときに、私は自分の抱えていたストレスの大きさに気づかされ、心療内科を受診しました。

そして、職場を変えて一時は良くなった体調も、また不眠とめまいで悪くなっていきました。自律神経が過敏に働きすぎていることを指摘されました。

 

私は「人より精神的に弱く傷つきやすいためにこのような事態になっている。自分は社会的に不適合なんだ」と考え、その生きづらさは一生抱えなければいけないのか、とこの数年苦しんでいました。うつの傾向は精神的に弱いからなるわけではないのですが(https://diamond.jp/articles/-/2071)、やはりこの気持ちは中々ぬぐえません。

わかっていても、なのです。

体は元気になっても、すぐに同じような思い込みで精神的に病んでしまう。この否定的な思い込みが続いてしまうのは、医学的なアプローチだけではだめかもしれない、とやっと最近になって思い出した、という次第です。

 

母との会話の様子がおかしい

父母との関係は、はたからみると「良好」です。

何不自由なく育ててもらっていました。やりたいといったことはやらせてもらえていました。かなり特権的な環境に居たことを日々実感しています。

定年を迎えた二人は私が働き出すタイミングとほぼ同時に南の島に移住しました。私は一人暮らしを1年ぐらいしたのちに恋人と二人暮らしをはじめた、というと聞こえは非常に良いですね。また、資金的に支援もしていただいています。結果、物理的な距離が大きくできて、親の過干渉に苦しまずに安心しているので、感謝はしているのです。

一方で、実際はいきなりに近い形で移住を告げられ、実家は売られ、私は社会人1年目として日々あくせく働きながら土日は家探しをしなければならなかった側面もあります。その前までは親のもとでお金を貯めてから一人暮らしをしようと思って、あまり収入が高くない職場も選んでしまいました。そういった事情は親からすればお構いなしです。

私としては経済的に自立しないし、常に親に「支援いただいている」と思いながら、顔色をうかがって生活しなければならず、それを苦しく思う部分がありました。とにかく親から離れたい、と心の内では強く思っていたのです(半ば無意識下で親とこれ以上いると良くないと思っていました)。

 

このんな風に、何不自由ない暮らしをさせてもらっていた一方で、親とのコミュニケーションはあるときから一方的になり、不信感は大きなものとなっていました。

それが如実に現れたのが、2022年11月にあった恋人と私と、母との食事です。

恋人は食事を終えて私に言いました。

 

「かずさはずっと反抗期の子どもみたいだったよ」

 

え?とかなり驚きました。

私は、親の前ではとにかく何も言いたくない、言うと余計なことを言われるからと、とにかく話を聞き、うなずくことに徹底していました。波風を立てないように、何か言われても我慢して・・・

「わかった、わかったから」

そんな反応が、一般的なの親しくしている親子の会話ではないことに私は気づいていなかったのです。

親と離れたのに、私は親との関係に常に苦しんでいます。LINEが来る度に少しもやっとした気持ちになってしまう。「親には感謝している」という気持ちと「もう親とはできるかぎり関わりたくない」という気持ちが混在している。

自分が親と関わる度に感じるこの息苦しさはどうして生まれてしまったのか。そう考え出すようになりました。

未だに親との関係は整理できていませんが、どこかで大きく振り返れればと思っています。

 

 

いきなり起こる友人への拒絶反応

2022年12月、私は中高の部活の友達を家に呼びました。

中高一貫校の女子校に居たので、とにかく仲が良く、大学卒業後も半年に1度のペースで会っていました。

私を含め、6人のグループ。

恋人も含めて7人でたこ焼きパーティをしました。

私は6人をもてなすつもりで、食事は全て恋人と用意し、集合時間から食べる時間を予測して準備をしました。

しかし、このような集まりの時に決まってみんな遅れるのです。時間通りに来たのは一人。私はがっくりとしました。

 

「せっかく作ったのに」

「これまでの苦労は何だったの」

 

とにかく私は人と会うときに取り越し苦労が多すぎるのです。そして相手もそれ相応に帰してくれると必ず期待してしまう。その勝手な期待に勝手に裏切られ、失望します。今回も、別にそこまでしなくてよかったのです。相手も頼んでいません。私だって集まりに遅れたことはあります。

全てが自分中心の勝手な期待なのです。

後から反省できてもその時は失望感に支配され、相手を責めることしか考えられなくなってしまいます。

 

友人5人は非常におおらかで優しい人たちばかりなので、私が準備していたことを知ると「ありがとう」と言ってくれます。そう言われると報われた気がして、気が収まるのです(本当に書いていて恥ずかしい)。

食後は、みんなで歓談。その頃には、みんなからのねぎらいの言葉もあり、遅れたことへの怒りなどもなくなっています。

 

話すことについては、中高時代を振り返ることが多くなりました。

中高生の頃の私は、とにかくやりたい放題。悩みがないわけです。だからこそ、周りは振り回されていたのだろうと思います。

また、担任や教師に対しても反抗的で、ルールに従わないことこそかっこいい、と思っている節があり、禁止されていた携帯を持ってきて、何度も取り上げられては反省文を書いていました。そこで取り上げられないための賢い振る舞いはできない。そういった幼さがありました。

現在は、中高生の頃の思い出に浸る度に、そういった私の行動を指摘されることがありました。

「何回も携帯取り上げられていたよね」

そういってそのときの思い出を友人Aは詳細にいつも語りました。そして、あのとき周りはどんな風に思って、どのような迷惑があったのか。といった話をしていました。私はただ苦笑いをするしかない。とにかく恥ずかしくて消したい記憶なのですが、Aはそうはさせてくれません。最近も、他の友人が話をさっと変えるまでずっと話していました。

そうした様子を見て、私はこのように思いました。

Aは私のことが生理的に苦手なんだな、と。

お互い主張が激しいタイプだし、自分の興味がないことがはっきりしていたので、本質的にそりが合わないだろうな、と思うことが多かったのは確かです。

私はさらにこう考えました。

私が嫌だと思うことを話し続け、私が「ごめん許してくれ」というまで話すAは生理的に私のことが苦手だ。私に対して許せない点が大いにある。→でも本人はなぜか気づいていない。→怖い。また嫌な思いをさせられるのではないか。→それならもう二度と会わない方がいい。→次回の6人の会は欠席しよう。

このように思ったとき、前にも似たようなことがあったことに気がつきました。

些細な出来事から傷つき、手のひらを返したように拒絶し、二度と会わない。そこまでいかなくとも機嫌を損ね相手に当たってしまうということが、何度もあったのです。それは大学時代から繰り返し行われていました。

私の人間関係の構築やコミュニケーションの取り方に問題があるのではないか。どうしたら直せるのか。そのように思い悩む日々は、大学生の頃からずっと続いていました。

 

私の推測

以上、三つの出来事から、私には以下の特徴があるといえます。

・ストレスや、痛みに弱い(苦痛だと思うことが多い)。

・母親との関係が不自然である。

・対人関係の構築が一方的である。

・思い込みが激しい。

母親との関係については、頭の中で整理したいと思っていましたが、とにかく対人関係に関する思い込みが激しく、その思い込みから抜け出せない苦しみがありました。

 

自分を傷つければ気が済まない。自分は友達も作れないだめな人間だ。みんな私から離れていく。そう思わずにはいられない。わかっていても、やめられない。

 

定期的にこの泥沼にはまって動けなくなっては、仕事に没頭し忘れる、同じことを繰り返す、インターネットで誰かの批判をする、同じことを繰り返す、友人に自分のことを知ってもらいたくて裏アカウントで自分の気持ちを吐露する。

とにかく永遠に繰り返していました。

年末にかけては、上記の出来事が立て続けにあったため、この泥沼思考に疲れていました。とにかく抜け出したい。何かわかることはないか。そう思って手に取った本が、岡田氏の「不安型愛着スタイル」に関する本でした。

 

岡田尊司「不安型愛着スタイル」

今回は、岡田尊司「不安型愛着スタイル 他人の顔色に支配される人々」(2022年、光文社)から一部引用、参照した内容となっています。私自身の問題はこれに終始するものではないということ、専門的な機関によって未だ診断がでていない状態であるということは前提としてあります。一方で「自分の変えられない性質だ」と思い込んで解決ができない状態から脱せる気がしています。

この機会に、自分を見つめ直す一つの視点として、取り入れたいと思っています。

honto.jp

特徴

 一般にもその存在と影響が広く認識されるようになった「愛着障害」。中でも、身近な問題となっているのは、比較的軽度な愛着障害である「愛着スタイル」だその核心とも言えるのが、「不安型愛着スタイル」で、人の顔色や気持ちに対する敏感さや、傷つきやすさ、安心感・自己肯定感の乏しさなどを特徴とする。繊細で、共感性に優れ、サービス精神旺盛で、優しく、献身的な一面とともに、依存しやすかったり、攻撃を受けやすかったり、利用や搾取をされやすいといった弱点を抱え、気疲れや自己犠牲が限界を超えると、心身の不調を来し、ときには別人のように怒り狂う面も持つ。(岡田尊司「不安型愛着スタイル 他人の顔色に支配される人々」2022年、光文社、4-5ページ。)

 

自分がサービス精神があって優しいとは到底思えませんが、自分の本来の性質と考えていたものを「不安型愛着スタイル」と推測すれば納得する部分が多々あります。

自分の職場の上司に心身の不調を訴えると、「到底そんなようには思えない」「普通にしか見えない」とよく言われました。

とにかく周りに心配されたくないから、過剰に明るく奔放に振る舞う。そして、ある一言ばかりを考えて仕事が手につかなくなる。そして、他人が考えてもいないようなことまで先回りして考えて行動してしまい、そこまでしなくてよかったと後から反省する。そんな気疲れが頂点に達して体調をまた崩す。

大学でも、バイト先でも、現在の職場でも、仲良くなれると思った人に対してはとことん心を開き、とにかく仲良くなろうとする。一番の友達を見つけたと思って親しく接する。しかし相手にとっては行き過ぎた距離感で、距離をとられたり、他の人と親密な様子をみると「自分は疎まれていたんだ」と考え落ち込む。社会人になって連絡が来なくなると「嫌われた」と考える。

このような過剰なまでの気遣いや嫌われたくないというような思考、そして二者択一的な考え方こそ、不安定な愛着スタイルを持つ人の特徴そのものなのです。

 

岡田氏の著書には、同じような対人関係の悩みを持った人がたくさん登場します。

あれ、私の話?と思うくらいまったく同じパターンなのです。

また、岡田氏は一言に「不安型愛着スタイル」といっても様々なパターンがあり、いくつかの要因が複雑にからまっていることが多いと述べています。いくつか当てはまる場合は、その傾向が強くあると考えてよいとしています。

世界中に一定数同じ悩を持つ人がいるということです。自分一人がこの問題に直面しているのではない、という事実はとてもありがたいですし、自分の生きづらさに原因があり名前があるということも本当にうれしかったです。

 

克服方法

不安型愛着スタイルの人を苦しめる課題として、愛情欲求が満たされなかったため愛着不安が強く、人に頼ろうとするが、そこで相手に求めすぎて期待を裏切られ、依存している相手を攻撃する「依存と攻撃」のパターンに陥りやすいということがある。そこには、期待を満たしてくれれば「いい人」、期待外れだと「悪い人」となってしまいやすい両極端な認知、二分法的認知の問題があり、自分自身も「良い子」「いい人」として頑張らなければならないというとらわれを抱えている。

 

私が上記で挙げたような人間関係で失敗するパターンと合致する考え方が示されています。

この認知の歪みは「ほどよさを取り戻すこと」によって正されるそうです。その「ほどよさ」を身につけるにはどのような力が必要なのか。岡田氏は、大きく言えば自分の視点を離れて物事を観る能力が大きく関わっていると述べています。

その能力は、「メンタライジング(共感的な察知能力)」「リフレクティブ・ファンクション(事態を少し高いところから客観的に観る能力)」の二つに分けられるんだとか。

 

私に欠けているのは、後者でしょう。

嫌われないよう、過剰な気遣い(共感)をしていることを「客観的に観る」ことができていないからいつも疲弊しているんですから。

これをやめるためには、

・書いて記録する

・マインドフルネス・瞑想を行う

・第三者に話して整理する。

という三つが効果的です。

どれも、自分自身の行動を客観視する(してもらう)ことで、一時の感情にとらわれることを避ける効果があります。三つは、カウンセラーによく勧められますし、やるようにしていたのですが、中々うまくいきません。

なぜか。これを行う上でのポイントは、事実と推測、自分の問題と相手の問題を切り分ける作業をすることだからです。これがうまくできていなければ、何度も同じことを懺悔し、不平不満を言うだけになってしまいます。

 

カウンセリングは保険外診療で、カウンセラーとの相性があるため、しっかりと探したい(過去に失敗経験あり)。手近にできることは「瞑想」と「書く」ことです。

 

特に、私は「書く」ことで多くの思いを伝えてきました。

今回も「書く」ことで自分の頭を整理したい。

そんな思いで始めました。

今年こそ、今の状態を脱したい。この気持ちを大切にしたいです。

 

~読んでくださった方へ~

読み進めるなかで、突っ込みどころが多くあったと思います。

私も書いていて「なんて自分勝手な嫌なやつなんだ」と心臓をわしづかみにされたように苦しかったです。でも、そんな「嫌な自分」像も私の推測かもしれない。

そう思ってはき出しています。ご容赦ください。

読んでくださってありがとうございました。